一茶庵の物語
「そば打ち名人」と呼ばれた、一茶庵の創始者片倉康雄は、明治三十七年(1904年)埼玉県北部の利根川に近い、現在の加須の町で生れました。彼の母は、たいへんおいしいそばを打つので、地元では有名でした。その「毛のように細いそば」が、少年時代の康雄は大好きでした。その味わいを自分の手で実現させたくて、みずから、そば打ちになりました。
それは大正十五年(1926年)二月三日のことです。片倉康雄は二十二歳。有能な会計士の職を捨てて、現在の新宿駅前に「一茶庵」を開業しました。誰にも学ばず、ただただ自分の舌に残っている母の「毛のように細いそば」の味を実現しようと、そばを打ち、そばを切ったのでした。最初はまったく失敗続き。「あの新宿の、まずいそば屋」という、奇妙なことで有名になった時期もありました。
けれど、人一倍の研究熱心とねばり強い努力、そして、ひとに愛される人柄の良さで、じわじわと「一茶庵の手打ちそば」のおいしさが作られていきました。そして、昭和八年(1933年)大森に新しいお店を開いた頃には、「東京大森に一茶庵あり」と言われるほどに話題の店になりました。多くの文化人にも愛されるようになりました。こうして、一茶庵は順調に発展しましたが、太平洋戦争の時に、大森の店を失い、埼玉県の熊谷市に難をのがれ、そのまま、戦後の混乱期を熊谷で過すようになってしまいました。
戦後の日本が少し落着いてくると、多くのひとから「名人片倉康雄のそばを食べたい」という声があがり、ついに昭和二十九年(1954年)、縁あって栃木県足利の地に「一茶庵」は開業しました。そして、現在のJR両毛線の線路近くにあった小さな店に、遠路はるばる東京から、「一茶庵のそば」を食べに来るお客さまも多くなりました。訪れたのは「そばを食べるひと」ばかりではありませんでした。「一茶庵のそば打ちを学ぶひと」も、次から次へと訪れました。その中には、「美々卯」の薩摩卯一さん、「家族亭」の永幡泰男さんなどの名前もありました。こうして、多くのそば打ちの職人さんが、次から次へと足利の一茶庵を訪れるようになり、そば屋さんの業界では、この現象を、「足利詣で」と呼ぶほどでした。
足利の地で、片倉康雄は一茶庵を発展させて、多くのお弟子さんを育て、日本のあちらこちらに「一茶庵の手打ちそば」を広めていきました。そして彼は昭和二年、文士・高岸拓川から『現代の友蕎子を目指しなさい。』と言われ「友蕎子」と名乗るようになりました。
「一茶庵・友蕎子・片倉康雄」は、伝統的な手打ちそばの世界に、新しく「一茶庵流の手打ちそば」の大きな潮流を確立しました。そして、さらに「そばの道」をきわめるために、古くは「続日本記」までさかのぼる多くの書物を学び、さらに、蕎麦を打ち、蕎麦を切るための多くの道具も研究し、改良を加えました。木鉢、麺棒、のし板、包丁に至るまで、独自に開発し、自分の手で作りました。
「一茶庵流手打ちそば」の世界は、「そば文化」の、ひとつの大きな成果かも知れません。そして現在も創始者片倉康雄の「そば打ちの心」は、二代目の片倉敏雄、三代目片倉庸光、さらには次男片倉崇博、と引き継がれ、足利の本店、一茶庵本店に脈々と生き続けています。
文 コピーライター小野田隆雄